浜松城の石垣、家康が築いたの?土づくりの城と堀尾吉晴の改修、今の天守と復元天守門を分けて、見学前の疑問を一緒に解いてみようね!!

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家康ゆかりの浜松城を見てみたい。写真には石垣と天守が写っている。
それなら、家康もこの姿の城を見ていたのかな?

ここ、ちょっと待って!

家康が拠点にした浜松城と、今の建物をそのまま重ねると、違う時代が一つになってしまいます。浜松市の解説では、家康期は土塁などを使う城として想定され、その後の堀尾吉晴期に高い石垣や天守を備えた姿へ変わりました。今見える天守は1958年の復興天守です。

家康と関係が深い場所なのは確か。それでも、そこにある全てを「家康が建てたもの」とするのは別の話なんだね。

今回は、家康の浜松城、堀尾吉晴の改修、江戸時代の変化、現代の天守と復元天守門を順番に見ていこう。戦の勝敗よりも、城の姿がどのように重なって今へつながったかを読む記事です。見学前にこの分かれ道を知ると、天守の外の石垣や門にも、聞いてみたいことが増えます。

目次

家康は浜松にいた。でも、今の天守と同じ建物にいたわけではない

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最初に家康と浜松城の関係を置こう。浜松市の案内では、1570年、家康は岡崎城から引間城へ拠点を移し、城を拡張して浜松城と改名しました。1586年に駿府城へ移るまで、浜松城を本拠としています。

引間城が出てきた。浜松城とは別の名前なの?

市の解説では、既存の引間城を新しい城の中へ組み込む形で拡張したと説明されています。家康の入城から全てが始まった、というより、前の城を基礎に範囲と中心が変わっていく話として読めるね。浜松市の浜松城跡の概要にも、今川勢力下の引間城から、家康・堀尾氏・江戸時代の城主たちによる変化が紹介されています。

市の浜松城の変遷では、家康期の城を土塁で囲まれた曲輪と、板葺きの屋敷を持つ姿として想定しています。石垣と大きな天守を備える城の写真とは、まず景色が違うんです。

曲輪は、城の中で区切られた場所を読むときに出てくる言葉。ここでは「どの場所を城の一部として囲み、何を置いたか」と考える入口にしてみて。名前を全部暗記する前に、城が一棟の建物だけではないことをつかもう。

家康の浜松城は、三方原台地の端の地形を使い、本丸や二の丸などが東西に連なる姿だったと、市は説明しています。北側に守りに適した湿地が広がっていたことも推定されています。高い建物だけで守る城、という想像から一歩外へ出る材料です。

たとえば見学前に地図を開くなら、天守の印だけで終わらず、その周囲の地形と城域の説明を見る方法があります。「建物がどこにあるか」に、「どこまで城の範囲だったか」を足す。写真に入りきらない城を読む準備になるよ。

家康の改修は、1570年に名前が変わった一回だけではありません。市は1578年頃からの大規模な工事にも触れています。浜松で過ごした期間の中でも城が変わるので、入城した日の姿を、そのまま全期間の姿にして覚えなくていいんです。

では、家康がいた城は何も残らないの? ここで「見える建物が同じではない」と「歴史とのつながりがない」を一緒にしないでね。後の改修で地下に埋もれた部分を含め、調査から考えられることがあります。次はその、地面の下の話へ進もう。

地下の堀から何が分かる?家康期を読む手がかりは、天守の外にもある

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天守の姿が家康当時と違うなら、家康期は何から考えるのか。
文書と、発掘で見つかった跡が、その手がかりになります。

浜松市の文化財情報vol.90には、家康の家臣・松平家忠が記した『家忠日記』に、1578年から1581年にかけて数度の城普請の記録がある、と紹介されています。家康が城を直していた時期を考える材料だね。

ただ、工事の記録があることと、屋根や部屋の形が全て分かることは同じではありません。ここで欲しい答えを小さく分けると読めます。「工事はいつ行われたか」は日記の紹介へ。「城のどの部分がどんな形だったか」は、地形や発掘の説明へ。

同じ市の文化財情報では、2014年の発掘調査で、自然地形を生かした堀跡と考えられる遺構が確認された、と報告しています。出土品、土層、江戸時代の絵図などから、家康期には堀として使われ、堀尾氏の時期以降に埋められたと考えられています。

上から城を建て直すと、前の時代のものが下へ隠れる。
だから、今立って見えるものだけでは、家康期を全部読み切れないんだね。

ここで「2014年」という数字が出るのは、堀を造った年ではなく、調査の年です。家康の時代と、私たちがその跡を調べた時代を分けよう。地面に残る物が古くても、その意味を説明する文章は現代に書かれています。

発掘の説明を読むなら、何を見つけたかと、それをどのように解釈したかを続けて見てね。今回なら、見つかったのは堀跡と考えられる遺構。その時期や変化は、土層や出土品、絵図などを照らして考えた説明です。

「土の城」という言葉も、何も造らなかったという意味にはしない方がいい。家康期の説明には、土塁に囲まれた区画、屋敷、地形を使う防御が出てきます。石垣が見えないと城らしくない、と感じても、まずどんな方法で場所を囲み守ったと考えられるのかへ戻れるよ。

現地の案内を読む予定なら、気になった説明を一つだけ残しておこう。たとえば「この堀跡を家康期と考える理由は何?」。帰ってから調査紹介を読むときに、年代の結論だけでなく、その根拠を探す問いになります。

発掘で分かったことが増えると、城の説明も詳しくなります。古いパンフレットに詳しく載っていないから、その跡が存在しなかった、とは決めないでね。案内の作成年と調査の年を見れば、説明が増えた順番も追えます。

戦場から帰った家康の逸話を読む日とは、少し違う入り口です。今回は、工事の記録と地面の跡から城の変化を見る。家康の人物像を急いで決める前に、どんな拠点を整えていたのかを考えられます。

高い石垣と天守は、堀尾吉晴の時期へ。城主が替わると姿も変わる

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次の分かれ道は1590年。家康が豊臣秀吉の命令で関東へ移り、浜松城には秀吉の家臣・堀尾吉晴が入りました。家康が駿府へ本拠を移した1586年と、関東へ移った1590年は別の出来事です。

ここを一つにしてしまうと、家康が浜松から直接そのまま江戸へ移ったように覚えやすいね。年を二つに分け、移る先も別に置くと、城の持ち主が変わる順番を追えます。

浜松市の変遷の解説は、吉晴が高い石垣、瓦葺きの櫓や城門、天守を築いたと説明しています。家康の土づくりの城から、見た目だけでなく構造を改めた城へ進むところです。

家康の城だから、全部家康の仕事だったと思っていた?
その疑問が出たら、今度は堀尾吉晴の名前を添えて読めるよ。

浜松市博物館の過去の堀尾吉晴展の紹介も、浜松城の石垣と天守に関わった人物として吉晴を取り上げています。これは過去の展示の説明で、現在その展覧会を開催している案内ではありません。

城は一人の城主の作品名のように呼ばれていても、その後の城主が手を加えます。浜松城では、家康との深い関係を知ることと、堀尾期の改修を知ることを一緒にできます。好きな人物の名前を一つ増やすように、城を変えた人の名前も増やしてみて。

吉晴期の天守は、どんな大きさだったのかな。市は、現存する天守台の規模や、後に造られた松江城の天守を参考に、四重五階と地下一階の姿を想定しています。現在の天守をそのまま昔へ戻した絵ではないんです。

この「想定」は大事な言葉だよ。昔の天守がその姿のまま現存している、という話ではありません。分かる材料をもとに、失われた建物を考える説明です。展示で復元図を見かけたら、実際に残るもの、古い記録、比較した別の建物のどれを使っているか読む楽しみがあります。

現在の天守は1958年に復興された三重三階の建物。市の説明では、吉晴が築いた大きな天守台に対して、三分の二ほどの規模へ縮めて建てられています。浜松城公園の公式案内も、現在の天守を1958年の復興天守として紹介しています。

だったら、天守だけでなく、支えている天守台にも目を向けたいね。上の建物が見せる現在の大きさと、下の台から考える過去の大きさ。同じ場所でも、違う時代の問いを持てます。

家康期の屋敷、堀尾期の天守、現代の復興天守。この三つを一枚の写真へ無理に押し込まず、時間の順に並べよう。写真を見て「家康の浜松城」と呼ぶときにも、何を家康とのつながりとして話しているかがはっきりします。

天守がなくても門は残った。今の天守門は、調査をもとにした復元

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さて、天守の話をしたら、隣にある門の話もしたくなるね。
名前は天守門。でも、天守と全く同じ歩みをたどった建物ではありません。

浜松市の天守門の解説では、堀尾吉晴が造った天守は江戸時代初期には失われていたと考えられています。一方、天守曲輪の入り口の門は幕末まで維持され、1873年に解体されました。

「昔の天守がない」から、江戸時代にも同じ場所が何もない空間だった、と考えなくていいんだね。天守門は残り、城の一部として使われていました。市が紹介する1854年の絵図には、地震で門の櫓の壁が一部壊れた様子も記されています。

天守門は、下の通路の上に櫓が載る形の門です。門の両側の石垣の上へ櫓が伸びるつくりにも注目できます。入り口だから通るだけ、と思いがちな場所にも、城をどう囲み、どんな建物を置いたかを読む材料があります。

今の門は2014年に完成した復元建築です。浜松城公園の天守門の紹介でも、完成年を確認できます。家康時代の建物がそのまま残っている、という案内ではありません。

では、どこを頼りに造ったの?
ここに、発掘調査の話がもう一度つながります。

市の文化財情報vol.72は、門跡の調査で礎石や、礎石を抜いた穴が見つかり、門柱の配置や扉の大きさを考えられたと説明しています。瓦や鯱瓦の一部も出土し、建物の年代や姿を検討する材料になりました。

石が置かれていた場所から柱の位置を考える。瓦の断片から屋根に使ったものを考える。いきなり一つの完成した城門を想像して造る話より、手がかりを集める順序が見えるね。

さらに、遠州に残る江戸時代の城の門の例も外観の検討へ使われたと、市は紹介しています。出土した物だけで建物の全てが分かる、とせず、別の門の例と照らして考える段階も含まれます。

現在の天守と天守門は、どちらも現代の建物ですが、説明の中で使われる「復興」と「復元」を、それぞれの根拠まで読んでみよう。天守なら天守台との大きさの関係へ。門なら礎石、瓦、比較例へ。言葉の印象だけで本物か偽物かを決めるより、見学で注目したいところが具体的になります。

門を見上げる予定があるなら、下の通路と上の櫓を別々に見たい、という一つの問いを持っていけます。全部の寸法を覚える必要はありません。何をもとにこの形を考えたのか。その問いがあるだけで、案内文を読む場所が変わります。

家康の城を知る一冊と、現地で見たい一つの問いを選ぼう

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もっと読んでみたいなら、加藤理文著『家康と家臣団の城』が候補です。KADOKAWAの角川選書で、2021年11月18日発売、紙書籍のISBNは9784047037045。出版社の紹介と目次で、第一章に浜松城を扱う項目があることを確認できます。

浜松城の一か所だけを歩くガイドとは、読む目的が違います。この本の公開目次には、家康の築城に加えて、家臣団の城、合戦と陣城、徳川政権の城などの章があります。浜松の疑問から、家康の城づくりへ範囲を広げたいときの候補になるよ。

まず購入前に見られる目次を開いてみて。浜松城のほか、岡崎城や駿府城も第一章に並びます。家康が拠点を移す話から城に興味を持った人なら、この並びが読む場所を決める入口になります。この案内で確認した範囲は、出版社が公開する書誌と内容紹介・目次です。

購入画面では、著者、書名、ISBNを組にしよう。楽天の検索には紙の本、電子書籍、中古が並ぶことがあります。持ち歩く紙の一冊がほしいのか、画面で読む方がいいのか、家の読書用なのか。自分が読みたい形まで決めると、同じ書名でも選ぶ商品が変わります。

現地へ行く予定がない日にも、市の変遷の説明から読み始められます。家康期と堀尾期で城の姿が違うことが分かったら、次に知りたいのは何だろう。土塁の位置か、天守台の大きさか、門を復元した根拠か。気になる一つを選んでから本へ進めば、ページ数の多さだけに押されずに済むね。

見学する日のメモなら、天守台と上の建物の関係を見たい、という一行でも十分。友達と行く予定なら、家康が拠点にした場所と、堀尾期の石垣を一緒に見たい、と先に伝える方法もあるね。天守の写真だけを撮る予定から、足元の大きさにも目を向ける予定へ、見たいものを増やせます。

開館時間や休館の予定は、行く日が決まってから公式案内へ戻ってね。今回の主題は、城の時代と建物の成り立ちです。歴史の疑問が解けたことと、その日に入場できることは別に確かめられます。

浜松城の写真を見て浮かんだ、「家康もこの城を見たのかな?」。
その疑問から、前の引間城、家康の土づくりの城、堀尾吉晴の石垣、失われた天守、現代の建物までつながりました。

次に浜松城の写真を見たら、上の建物と、下の天守台を別々に見てみて。そこへ、家康期の城を考える地下の跡、門の復元につながった礎石を足していこう。同じ場所に、いくつもの時代の手がかりが重なっています。家康の城を知りたい、その気持ちから、今度は石垣や門にも会いに行きたくなるね!

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この記事を書いた人

徳川家康の生涯や関わった人々、ゆかりの地を少しずつ追いかけています。

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