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歴史の授業でよく出てくる「武家諸法度」。名前は覚えていても、いつ、誰が、どんな内容を定めたのか、すぐに説明できる人は意外と少ないかもしれません。
この記事では、国立公文書館のデジタル展示「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」の「家康の内政・外交」のページと、ウィキソースに収められた『改定史籍集覧』第17冊(国立国会図書館デジタルコレクション所収)の「武家諸法度(元和令)」の本文をもとに、最初の武家諸法度について5つのポイントにまとめます。条文の現代語の大意は、この記事での要約です。後半の、武家諸法度を読むときの工夫は、この記事の提案です。
※条文の読み方や解釈には、研究者によってさまざまな説があります。この記事の大意は、条文の見出しの部分をわかりやすく言い換えた一つの読み方です。くわしく学びたい場合は、史料集や専門書もあわせて確かめてください。
武家諸法度とは
国立公文書館の説明
国立公文書館のデジタル展示では、「御触書(寛保集成)」という資料に「武家諸法度」の条文が収録されていると紹介されています。「御触書」は、8代将軍吉宗が、家康以来の幕府が発した法令の編集を命じて作られたものです。
武家全体が守る基本法
同じページでは、武家諸法度は武家全体が守る基本法であり、以後、将軍の代替わりごとに江戸城で読み聞かせられたと説明されています。最初の武家諸法度は、その出発点にあたるものです。
最初の武家諸法度を知る5つのポイント
ここでは、国立公文書館の説明と『改定史籍集覧』の本文から、元和元年の武家諸法度について押さえておきたい点を5つにまとめます。
1. 慶長20年(元和元年・1615年)7月7日
国立公文書館の説明では、武家諸法度は慶長20年(元和元年・1615年)7月7日に、諸大名を伏見城へ集めて読み上げられたとされています。『改定史籍集覧』の本文の末尾にも「慶長二十年卯七月」とあります。
2. 起草したのは以心崇伝
武家諸法度は、家康が以心崇伝(いしんすうでん)に起草させたものだと説明されています。読み上げたのも崇伝だったとされています。
3. 将軍秀忠の名で出された
国立公文書館の説明では、武家諸法度は将軍秀忠の名で読み上げられたとされています。家康が起草させ、2代将軍の秀忠の名で出された法度だったということです。
4. 全13か条
武家諸法度は全13か条だったと説明されています。『改定史籍集覧』の本文でも、「一」で始まる条文が13並んでいます。
5. 将軍の代替わりごとに読み聞かせ
以後、武家諸法度は将軍の代替わりごとに、江戸城で読み聞かせられたと説明されています。最初の13か条は、その後の武家諸法度の出発点になりました。
5つのポイントの早見表
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| 日付 | 慶長20年(元和元年・1615年)7月7日 |
| 場所 | 伏見城に諸大名を集めて読み上げ |
| 起草 | 以心崇伝(家康が起草させた) |
| 名義 | 将軍秀忠の名で |
| 条数 | 全13か条 |
| その後 | 将軍の代替わりごとに江戸城で読み聞かせ |
表の内容は、国立公文書館のデジタル展示と『改定史籍集覧』の本文をこの記事でまとめたものです。
13か条の見出しと大意
条文の見出しを一覧にする
『改定史籍集覧』の本文では、13か条それぞれに見出しのような一文があり、そのあとに説明の文が続きます。見出しの部分と、この記事での大意を一覧にすると次のようになります。
| 条 | 本文の見出し(返り点は省略) | この記事での大意 |
|---|---|---|
| 1 | 文武弓馬之道専可相嗜事 | 学問と武芸に励むこと |
| 2 | 可制群飲佚遊事 | 集まって飲み騒いだり遊びほうけたりしないこと |
| 3 | 背法度輩不可隠置於国々事 | 法度にそむいた者を領国にかくまわないこと |
| 4 | 国々大名小名并諸給人…速可追出事 | 反逆や殺人をした家来がいると知らされたら、すぐに追い出すこと |
| 5 | 自今以後国人之外不可交置他国者事 | これからは、自国の者以外を領内に住まわせないこと |
| 6 | 諸国居城雖為修補必可言上…事 | 城を修理するときも届け出て、新しい城づくりはやめること |
| 7 | 於隣国企新儀結徒党者有之者早可致言上事 | 隣の国で新しいたくらみをして仲間を集める者がいたら、早く知らせること |
| 8 | 私不可締婚姻事 | 勝手に婚姻を結ばないこと |
| 9 | 諸大名参勤作法之事 | 大名が参勤するときの作法について |
| 10 | 衣裳之品不可混雑事 | 身分に応じた衣服の区別を乱さないこと |
| 11 | 雑人恣不可乗輿事 | 身分の低い者が勝手に乗り物に乗らないこと |
| 12 | 諸国諸侍可被用倹約事 | 諸国の武士は倹約すること |
| 13 | 国主可撰政務之器用事 | 国を治める者は、政治の才能のある人を選ぶこと |
本文の見出しは、旧字体を新字体に直し、返り点を省いています。大意は、この記事での要約です。
城と婚姻の決まり
なかでもよく知られているのが、城の修理の届け出と新築の禁止(第6条)、勝手な婚姻の禁止(第8条)です。大名が力を蓄えたり、大名どうしが結びついたりすることへの警戒が読み取れる、と説明されることが多い条文です。
第1条の説明を読んでみる
「左文右武」
第1条の説明の文は、「左文右武古之法也」で始まります。この記事での大意では、「左に文、右に武というのが古くからの決まりで、両方を備えなければならない」という意味です。続けて「弓馬是武家之要枢也」、つまり弓と馬は武家の大切な要だと述べています。
「治まっていても乱を忘れない」
第1条には「治不忘乱」という言葉もあります。世の中が治まっていても、乱れたときのことを忘れず、修練に励まなければならない、という趣旨だと読めます。戦の時代から泰平の時代へ移るなかで、武士の心構えを示した一文といえそうです。
ほかの条文の説明も読んでみる
『改定史籍集覧』の本文では、見出しのあとに短い説明の文が続きます。いくつかの条文について、説明の文の一部と、この記事での大意を紹介します。
第3条「法は礼節の本」
第3条の説明は「法是礼節之本也」で始まります。続く「以法破理以理不破法」は、この記事での大意では「法によって理屈を破ることはあっても、理屈によって法を破ってはならない」という意味です。法度を重んじる姿勢がよく表れた一文です。
第6条「城が百雉を過ぎるのは国の害」
第6条の説明には「城過百雉国之害也」とあります。この記事での大意では、「城が大きすぎるのは国の害であり、高い塁や深い堀は大きな乱のもとになる」という趣旨です。城の修理に届け出を求めた理由が、説明の文からも読み取れます。
第12条「富者はいよいよ誇り」
第12条の説明は「富者弥誇貧者耻不及」で始まります。この記事での大意では、「富む者はますます誇り、貧しい者は及ばないことを恥じる。世の中の風俗が衰えるのに、これほどのものはない」という趣旨で、倹約を求めています。
第13条「国を治める道は人を得ることにある」
第13条の説明には「凡治国道在得人」とあります。国を治める道は、よい人材を得ることにあるという意味です。功績と過ちをよく見きわめ、賞罰を正しく行うことも説かれています。
| 条 | 説明の文の一部 | この記事での大意 |
|---|---|---|
| 3 | 法是礼節之本也 | 法は礼節のもとである |
| 6 | 城過百雉国之害也 | 大きすぎる城は国の害である |
| 12 | 富者弥誇貧者耻不及 | 富む者は誇り、貧しい者は恥じる |
| 13 | 凡治国道在得人 | 国を治める道は人を得ることにある |
武家諸法度のその後
改定が続いた
国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、武家諸法度のうち「元和令」(元和元年=1615年)、「寛永令」(寛永12年=1635年)、「天和令」(天和3年=1683年)を比べられる資料を探した事例が載っています。最初の13か条のあとも、武家諸法度は時代に合わせて改められていきました。
江戸城での読み聞かせ
国立公文書館の説明にあるとおり、武家諸法度は将軍の代替わりごとに江戸城で読み聞かせられました。伏見城で読み上げられた最初の法度が、その後の幕府と大名の関係の土台になったことがうかがえます。
武家諸法度を読むときの工夫
ここからは、国立公文書館の説明と『改定史籍集覧』の本文をもとにした、この記事の提案です。
見出しだけ先に読む
13か条を一度に読もうとすると大変です。まずは「一」で始まる見出しの部分だけを読み、何について決めた条文なのかをつかむと、全体の見通しがよくなります。
自分の言葉で大意を書く
見出しを読んだら、自分の言葉で大意を書いてみるのもおすすめです。この記事の大意と比べて、どこが同じでどこが違うかを見ると、読みが深まります。
年表に書き入れる
1615年は、武家諸法度が出された年です。家康の生涯の年表に書き入れて、前後の出来事と並べてみると、法度が出された背景が見えやすくなります。
デジタルアーカイブで写本を見る
国立公文書館デジタルアーカイブでは、「武家諸法度」の写本(請求番号180-0005)の情報が公開されています。実際の写本の姿を見てみると、史料がぐっと身近に感じられるでしょう。
武家諸法度のよくある質問
最初の武家諸法度はいつ出された?
国立公文書館の説明では、慶長20年(元和元年・1615年)7月7日に伏見城で読み上げられたとされています。
誰が作ったの?
家康が以心崇伝に起草させ、将軍秀忠の名で出されたと説明されています。
何か条あるの?
最初の武家諸法度は全13か条です。
武家諸法度は一つだけ?
最初の13か条のあとも、寛永12年(1635年)や天和3年(1683年)などに改められたものがあります。
参勤交代のことも書いてある?
第9条の見出しは「諸大名参勤作法之事」で、大名が参勤するときの作法について定めた条文です。くわしい内容は、史料集などで本文を確かめてみましょう。
原文はどこで読める?
ウィキソースには、『改定史籍集覧』第17冊を底本とした「武家諸法度(元和令)」の本文が収められています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、『御触書寛保集成』などの史料集も紹介されています。
どこで読み上げられたの?
最初の武家諸法度は伏見城で読み上げられ、以後は将軍の代替わりごとに江戸城で読み聞かせられたと説明されています。
武家諸法度を知って家康の時代をもっと身近に
最初の武家諸法度は、家康が以心崇伝に起草させ、慶長20年(元和元年・1615年)7月7日に伏見城へ諸大名を集めて、将軍秀忠の名で読み上げられた全13か条の法度です。学問と武芸に励むこと、城の修理の届け出、勝手な婚姻の禁止などが定められ、以後は将軍の代替わりごとに江戸城で読み聞かせられました。見出しを一つずつ読みながら、家康の時代の武家の決まりにふれてみましょう。