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江戸城の説明に太田道灌が出てくる。でも、江戸といえば徳川家康。さらに皇居東御苑にあるのは、天守そのものではなく天守台です。
「結局、誰が建てたお城なの?」
ここで一人の名前に絞ろうとすると、かえって話がつながりません。最初の築城、徳川氏による拡張、天守の建て替え、火災後の天守台の再建。それぞれ別の出来事だからです。
最初に江戸城を築いた人物として知られるのは太田道灌です。家康は、すでにあった城へ入り、徳川氏の拠点として整えました。その後も秀忠・家光の時代へと工事が続き、天守も三度築かれています。
この記事では、「江戸城を建てた」という言葉の中身をほどきます。年号を全部暗記するためではなく、家康の城と現在の城跡を、同じ建物だと思い込まないための整理です。現地を訪れた体験談や、書籍を通読した感想ではありません。
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最初の江戸城は太田道灌の城|家康より前の時間がある
家康の前から、江戸には城がありました。環境省の特別史跡江戸城跡の解説では、長禄元年、1457年に太田道灌が築いたと説明されています。
家康が江戸へ入る1590年より、百年以上前のことです。江戸城の出発点を家康に置くと、この時間が丸ごと消えてしまいます。
ただし、「1457年に築城」と聞いて、徳川時代の巨大な石垣や高い天守がその年から立っていた、と考えるのも違います。同じ場所の城でも、後の姿を最初の時代へ持ち込むことはできません。
ここで大切なのは、城の名前が続いていることと、建物が同じまま残っていることを分けることです。「江戸城」という一つの呼び名の下に、違う時代の城が重なっています。
環境省の解説では、その後、1524年に北条氏の支城になったことも示されています。太田道灌から、いきなり家康へ飛ぶわけではありません。家康が入るまでにも、城を使う側の歴史がありました。
築城者と、城を大きくした人物は同じとは限らない
「誰が建てた?」は分かりやすい質問です。でも、お城の歴史では答えを一つに固定しにくいことがあります。
最初に築いた人を知りたいのか。後に大規模な整備を行った人を知りたいのか。それとも、絵に描かれた天守を建てた人を知りたいのか。質問の対象を少し狭くすると、答えがはっきりします。
江戸城なら、出発点は太田道灌。徳川氏の江戸の拠点としての整備を考えるなら家康以後。そして天守の姿まで知りたいなら、慶長・元和・寛永のどの時期かを添えます。
たとえば説明文に「家康の江戸城」とあっても、それだけで家康が土地を選んで最初から築城した、と読む必要はありません。「家康が使用した城」という意味なのか、「家康の時代の天守」という意味なのか、前後の文章を読むと理解しやすくなります。
道灌の城の細かな外観は、今回確認した短い公的解説だけでは描き切れません。後世の天守の絵を借りて、道灌の城の姿として説明しないことにします。
城の始まりから徳川時代、皇居へ至る流れを本で追いたい場合は、PHP研究所の紹介で太田道灌や天守造営などを扱うとされる『新版 名城を歩く9 江戸城』が関連します。購入するなら「9」と「江戸城」の両方を見て、同シリーズの別の城と間違えないようにしてください。
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家康の江戸入府は1590年|将軍就任とは別の出来事
次に家康です。環境省の解説では、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びた後、家康が関八州へ移り、1590年に江戸城を居城とした流れが示されています。
ここが「家康が江戸へ来た」節目です。幕府を開いた年と一緒に覚えようとして、順番がこんがらがるところでもあります。
江戸へ入ることと、征夷大将軍になることは別です。まず城を拠点とし、後に江戸幕府の政治の中心となっていく。最初から完成した幕府の巨大な城へ入った、という読み方ではありません。
入ったその日に、後の江戸城が完成したわけではない
環境省の説明では、家康の入府時は応急的な修理程度で、その後、秀忠・家光の時代へも城の拡大や整備が続いたとされています。
「家康が江戸城を整えた」と「家康が一人で後の江戸城を完成させた」は、似ているようで違います。前の表現から、後の表現へ勝手に広げないことが大事です。
土地を受け継いで城へ入る。城を使いながら直す。政権の拠点として拡張する。次の世代にも工事が続く。こうして動詞を分けると、一度の築城イベントでは説明できない理由が見えてきます。
ここで「城」と聞くと、どうしても高い天守を思い浮かべがちです。でも、政治や生活を支えた空間まで考えるなら、天守だけを見ていると足りません。御殿や門、濠、石垣など、違う役割を持つ部分があるからです。
家康の江戸入府を、後の天守の完成年だけで説明できないのも、このためです。城を使い始めることと、一つの建物が完成することは、時間の軸が違います。
本丸御殿へ目を向けると、城の意味が変わる
中央公論新社の『江戸城―本丸御殿と幕府政治』の紹介は、御殿の空間と幕府政治を結びつけています。紹介には、表・奥・大奥や、役職者の行動、儀礼などの切り口が示されています。
これは、城を「大きくてかっこいい建物」だけで見ないための入口です。どの空間で何が行われたのか、誰がどこへ進めたのか。そんな問いを持つと、天守とは別の面が見えてきます。
ただ、ここから各時代の部屋割りがすべて同じだった、とは言えません。家康の時代から幕末までの御殿を、一枚の平面図で代表させるのも避けたいところです。御殿について読む際も、対象の時期が手掛かりになります。
入府と、その後の城の整備を分けてから御殿へ進むと、家康の仕事を小さく扱うのでも、すべてを家康一人の仕事にするのでもない見方ができます。
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江戸城の天守は三度築かれた|家康・秀忠・家光を分ける
では、天守は誰のものだったのでしょう。江戸東京博物館のレファレンスには、1607年に家康、1623年に秀忠、1638年に家光と、天守が築き直された経過が整理されています。
慶長12年の家康、元和9年の秀忠、寛永15年の家光。三つを並べると、「江戸城の天守」は一棟だけを指す言葉ではないと分かります。
これを、三つの天守が同時に並んでいた、と受け取らないようにしましょう。時期が異なる天守の変遷です。同じ城の歴史の中で、天守の姿が置き換わっています。
復元図の「時代」は、建物の名前と同じくらい大事
天守の復元図を見て「これが家康の江戸城か」と思いたくなるところです。しかし、図の説明が寛永期なら、対象は家光の時代です。
徳川家の江戸城という大きな意味ではつながっています。それでも、人物を家康と特定して建物の細部を語るなら、慶長期のものかどうかが重要です。三代をひとまとめにすると、分かりやすさと引き換えに時代がずれてしまいます。
図を見るときは、まず説明にある年号や「慶長」「元和」「寛永」の言葉を拾ってください。それから屋根や外観を見ます。この順番なら、見た目の印象で持ち主の時代を決めずに済みます。
高さの数字も、そのまま横並びにしない
江戸東京博物館の回答は、天守の高さをメートルに直す際、尺や間の扱いによって計算が変わることを説明しています。また、残る図面が必ず完成図とは限らないことにも触れています。
「高さはぴったり何メートル?」と一つの数字だけを求めるより、どの時期の天守で、何を含む高さなのかを見るほうが、建物を正確に理解しやすくなります。
石垣の天守台を含む高さと、その上の建物部分の高さは別です。屋根が何層あるかと、内部が何階かも別。こうした違いを抜かしたまま数字だけ比較すると、資料が食い違って見えることがあります。
この記事では、三つの天守の細部を全部同じとしたり、数値だけで単純な順位を付けたりしません。家康の天守、秀忠の天守、家光の天守が別の段階である、という骨組みを先に押さえます。
天守の造営を城全体の歴史の中で追いたい方は、先ほどの『新版 名城を歩く9 江戸城』の出版社紹介も参考になります。図版に関心がある場合も、書名だけで判断せず、対象の年代を意識して読むと整理がしやすくなります。
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現在の天守台は、焼失後に再建された土台|模型とは時代が違う
皇居東御苑の天守台を、「家康が建てた天守が、そのまま石垣だけ残ったもの」と説明するのは正確ではありません。
宮内庁の園内解説によると、家光の時代の天守は1657年、明暦の大火で焼失しました。翌1658年に天守台は再建されましたが、天守そのものは再建されていません。
家康の天守が1607年。家光の天守が1638年。その焼失が1657年。現在の天守台の再建が1658年。この順番で、見えている対象の時代を分けてください。
「天守台」という名前が教えてくれるとおり、役割は天守を載せる土台です。土台があることと、その上に建物が再び建てられたことは同じではありません。
宮内庁は、家綱を補佐した保科正之の、平和な時代に天守を必要としないという趣旨の意見が通ったと説明しています。家康自身が、現在の土台だけを残すと決めた話ではないのです。
江戸城復元模型は、家光の寛永期の天守
同じ園内解説にある江戸城復元模型は、1638年に家光が建てた寛永期の天守を対象にしています。現在の天守台の上に、同じ時代の実物が残っている、という意味ではありません。
ここは少し紛らわしいところです。どちらも江戸城に関わるものでも、模型が示す建物の時期と、現存する天守台が再建された時期は違います。
宮内庁は模型について、五重の屋根を持つ六階の建物と説明しています。「五重」と「六階」が並んでも矛盾ではありません。屋根の層と、内部の階を別に数えているからです。
模型を見るときは、外から見える屋根の重なりと、内部の階の説明を分けると理解しやすくなります。ただし、実際に現地で模型を観察した体験として述べているわけではありません。ここでは公式解説をもとに対象を整理しています。
復元と現存を、一枚の想像図で混ぜない
復元模型や復元CGは、失われた空間の規模や配置を考える助けになります。一方、現在の写真は、いま残るものを記録します。二つは目的が違います。
現存する土台の写真を見て建物を想像すること自体は、歴史を楽しむ入口です。でも、想像した建物を「現在ここにある天守」と説明してしまうと、城跡の理解が変わってしまいます。
本で建物の空間をイメージしたい場合、学研の『デラックス よみがえる江戸城』の紹介では、本丸御殿をCGで再現する内容が案内されています。これは現存建物の写真集としてではなく、復元表現を通して失われた空間を考える関連資料です。
天守を扱う本だと決めつけて選ばず、御殿の復元に関心があるかも考えてください。天守の変遷を知る目的と、御殿の内部をイメージする目的は、同じ城でも少し違います。
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まとめ|「誰が建てた?」に、何を建てたかを添える
江戸城の話が混ざったら、人物の名前だけを増やすより、出来事の言葉を付け足してみてください。
太田道灌は最初の築城。家康は江戸への入府と徳川氏の拠点としての整備、そして慶長期の天守。秀忠と家光の時代にも天守の建て替えがあり、家光の天守は明暦の大火で失われました。翌年には天守台が再建されましたが、天守は戻りませんでした。
この流れなら、道灌と家康のどちらかを「間違い」として消す必要はありません。別の段階を担っていた、と説明できます。
気になる絵や模型があれば、「江戸城」とだけメモせず、「寛永期の天守」「火災後の天守台」「本丸御殿の復元」のように、対象を書き添えるのがおすすめです。次に別の資料を開いたとき、同じものを比べているかが分かります。
たとえば、「家康が建てた城がいまもある」と聞いたら、城郭の場所のことなのか、現存建物のことなのかを考えます。「江戸城には天守がない」と聞いたら、もともと一度もなかったのではなく、三度築かれた後に再建されなかった歴史へ戻れます。
家康の城づくりを知ることは、天守一棟の完成年を覚えることだけではありません。既存の城を受け継ぎ、拠点を整え、次の世代へつながった変化を読むことでもあります。
さらに政治の場として知りたくなったら、天守から御殿へ視点を移すと問いが変わります。「どれだけ高かった?」から「どの場所で、どんな政治が行われた?」へ。その入口として、出版社が空間と政治の関係を紹介する深井雅海『江戸城―本丸御殿と幕府政治』を挙げておきます。
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