家康はなぜ名古屋城を築いた?清須越と公儀普請から石垣・城下町・義直の入城まで、金鯱の下にある歴史をつなげてゆっくりと読む入門案内

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名古屋城の写真を見て、まず金の鯱に目がいく。
そりゃ、いくよね。屋根の上であんなに存在感を出しているんだもの!

でも、家康について調べていて名古屋城に行き当たると、ちょっと引っかからない?
家康といえば江戸。晩年なら駿府。それなのに、どうして尾張にも大きなお城を造ったんだろう。

この疑問は、天守だけを見ているとほどきにくいんです。

先に答えを置くと、名古屋城の成立には、清須の水害リスクを踏まえた拠点の移転、諸大名を動員した公儀普請、家康の九男・義直が治める尾張の基盤づくりが重なっています。さらに城下町も清須から移されました。

お城の引っ越し。
そして、町の引っ越しまで!

そこまで視野を広げると、金鯱の下の石垣や、城の周りの道まで、見る場所が増えてくるよ。今回は家康が名古屋城を築く過程を、土地、工事、人、町の順でつないでみます。見学した体験談ではなく、名古屋城の公式解説を確かめながら読む歴史の入門です。

目次

清須があったのに、なぜ名古屋へ?最初に土地を見よう

すでに城があるなら、そこを直せばよさそう。
新しい城を一つ造るなんて、石も木も人も、ものすごく必要だよね。

この「直すか、移るか」のところで、土地の条件が出てきます。

名古屋城の公式の歴史解説では、1607年に家康の四男・松平忠吉が亡くなり、九男の義直が遺領を継いだとされています。当時の尾張の中心だった清須城には水害などの危険があり、新たな築城が必要との上申を受けた家康が、1609年に名古屋台地での築城を命じました。

つまり、家康がある日ふと思いついて、大きな城を追加した、という読み方では足りないんだね。

清須側にどんな問題があって、新しい場所に何を求めたのか。
ここを先に押さえると、城の規模の話に入る前に、移転の理由が見えてきます。

公式の清須越の解説には、家臣の山下氏勝が移転を進言した経緯もあります。低地の清須に対して、名古屋は台地であり、熱田の港に近いという地形と交通の条件が示されています。

あ、港も出てくるのか。
城って山の上か、堀の内側だけで考えがちだけど、人や物が動く道も一緒に見たいところだね。

ただし、ここからすぐに「台地だから水害は絶対にない」とは言えません。歴史の説明にある移転の判断と、今の防災情報は別の話です。現代の土地選びや安全性の保証にまで広げず、当時どんな条件を比較したかとして読んでください。

手元に地図があるなら、最初は細かな城門の名前を全部覚えなくて大丈夫。清須、名古屋城、熱田の三つの場所を探してみて。

清須からどの方向へ拠点を動かしたのか。新しい城の周囲には町をどこまで置けそうか。港は城そのものの敷地とは別の場所にある。そうやって、点を三つ置いてから説明に戻ると、土地と交通を一文に詰め込んだ解説も追いやすくなります。

家康の人物伝の年表に「名古屋城築城」と一行だけ書かれていたら、その隣に「清須から移転」と短く足すのがおすすめ。何を新しくしたかだけでなく、何を変えたかも残せるから。

さらに城そのものの成り立ちを本で調べたい人には、学研の名城シリーズ『名古屋城 尾張を守護する金の鯱』が候補になります。出版社は、大坂方への備えという軍事的な面から名古屋城を紹介しています。今回確認した楽天の商品は中古本なので、状態や付属品、配送条件は商品ページで見てね。

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土地の移転の経緯は名古屋城公式の近世の歴史、地形と港を含む説明は公式の清須越の解説で確認できます。

公儀普請って、誰が造ったの?石垣の持ち場へ目を向ける

「家康が築いた城」と聞くと、家康と家臣たちで造ったように受け取ることもあるよね。

でも、名古屋城の築城では、加藤清正や福島正則をはじめ、主に西国や北国の大名たちが動員されています。公式の歴史解説は、1610年から公儀普請による築城が始まったと説明しています。

公儀普請という言葉に出会ったら、まずは、幕府側が命じ、諸大名が分担して行う工事、と捉えると流れを追いやすいよ。
家康が築城を進めたことと、現場の工事を誰が担当したかは、分けて見られます。

ここで石垣に注目してみて。

公式の石垣案内には、「丁場割り」といって大名ごとの持ち場が決められていたこと、石に刻まれた記号が運んだ石を他家と区別するためのものとみられることが書かれています。

持ち場がある。
石には区別のための印もある。

ただ巨大な石を積んだ、で話を終えるにはもったいないね。どの場所を誰が受け持ったのかという工事の仕組みまで、石垣から考えられるんです。

現地で石を見られる機会があっても、記号だけで自分が施工大名を特定できるとは限りません。まず案内板と照らし、どういう説明が付いているか読む。それで十分、歴史の見方が一歩進みます。刻印を見つけるために立入禁止の場所へ入ったり、石に触れたりする必要もないよ。

そして、加藤清正の名前が出てくると、覚えておきたい話が一つあります。

名古屋城には「清正石」と呼ばれる大きな石があります。でも公式案内は、この石垣の施工大名は黒田長政であり、清正が運んだという話は近代の説話だと説明しています。

え、名前が付いているのに?
そう。呼び名と、施工の担当と、後に語られた話は、必ずしも同じにならないんです。

清正が名古屋城の築城に関わったことまで否定する話ではありません。公式には天守台の石垣を担当したことも載っています。ただ、有名な人物が工事に参加したという事実を、その人物の名前が付いた石の由来の証明には使えないんだね。

こういうときは、メモを三つに分けるとすっきりします。

呼び名は、清正石。
施工についての公式説明は、黒田長政。
清正が運んだというのは、後の説話。

全部を一つの文章に混ぜてしまうと、面白い伝説がそのまま工事記録のように見えてしまう。分けたままなら、伝説の面白さも、史実を調べる入口も残せるよ。

名古屋城の建築や軍事的な構えをさらに知りたい場合、先ほどの学研の本も調べる候補です。出版社の紹介と書誌までを確認しており、本文中にどの刻印の解説があるかまでは確認していません。特定の石の写真や図面が必要なら、購入前に目次や内容を別途確かめてね。

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この節の持ち場、刻印、清正石の説明は名古屋城公式の石垣・清正石の案内を出典にしています。

天守ができた年と義直が入った年を、一つにしないでね

資料を読んでいて「1610年」「1612年」「1615年」「1616年」と出てきたら。

待って、結局いつできた城なの?
そんなふうに、年が増えるほど分からなくなることもあると思う。

これは、何の完成や移動を指しているかが違うためです。名古屋城公式の近世の歴史に沿って並べると、1610年は公儀普請による築城開始、1612年は大小天守の完成、1615年は本丸御殿の完成、1616年は義直の入城として読めます。

城を一つの完成品として眺めると、この違いが消えてしまうんだね。
石垣の上の天守ができることと、政務や暮らしに使う御殿ができること。そして、城主が実際に入ること。順番に分ければ、年号をただ暗記するより筋が通ります。

年表を書くなら、年の横に動詞を一つ置いてみて。
「始める」「天守ができる」「御殿ができる」「入る」。

数字だけ四つ並べるより、何が進んだ年かが分かるでしょう。城全体の完成という言葉が出てきた資料では、どの建物や工事の範囲を指すかも確かめてください。別の年が書いてあるだけで即座に間違いと決めず、主語を探すところからです。

もう一つ、家康と義直の関係も整理しておきたいところ。

義直は家康の九男で、尾張を任された初代藩主です。名古屋城は、家康だけの生涯の拠点を並べた一覧より、義直が尾張を治める基盤として読むほうが、この城のその後へつながります。

家康の政策を追っているのに、途中で息子の名前が出てくる。
そこで脱線したと思わなくていいよ。誰が計画を進めたかから、誰がこの場所を使い続けたかへ、話が進んでいるんです。

本丸御殿の役割も、その先で変わります。公式の御殿案内では、藩主の住居と政庁として1615年に完成し、1620年に義直が二之丸御殿へ移った後は将軍専用の宿館になったと説明されています。

同じ御殿でも、いつの役割を見るかで変わるのね。

部屋を豪華さだけで順に眺めるより、誰が対面する場所なのか、正式な場か、私的な場か、と問いを置くと説明が頭に入りやすくなります。公式案内にも、玄関、表書院、対面所それぞれの用途が載っています。

現在見られる本丸御殿については、さらに時代を分けてください。元の御殿は1945年に焼失し、現在の復元された御殿は2018年に完成したものです。今日の見学で見る建物を、家康の時代からそのまま残った建物として紹介しないようにしたいね。

この区別ができると、「昔の話」と「今見られるもの」が、ちゃんとつながったまま混ざらずに済みます。復元された空間を楽しむことと、現存している当初材かどうかを調べることは、別々の見どころになれます。

学研の『名古屋城 尾張を守護する金の鯱』は、出版社の発売日表示が2000年の本です。城の歴史を掘り下げる候補として挙げていますが、2018年完成の復元御殿の現行観覧案内を得るための本ではありません。この目的の違いだけ、選ぶ前に押さえておこう。

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年表は公式の近世の歴史、御殿の用途と復元は公式の本丸御殿案内に基づきます。

清須越は町の引っ越し。金鯱を見たあと、城の外までつなげよう

城の場所が変わる。
城主が移る。

ここまででも大きな出来事だけど、名古屋では町も動きます。清須から名古屋へ町ごと移す「清須越」です。

公式解説には、武士だけでなく、職人、商家、寺社、町人が移されたことが載っています。刀や鉄砲の職人だけを連れてきた話ではなく、米や塩などを扱う商いも含まれている。

ああ、暮らしを続ける町なんだ。

城が完成したら、周りの生活が自動的に生まれるわけではないものね。食べるものを扱う店があり、ものを作る人がいて、寺社があり、住まいがある。城の移転と町づくりを一緒に考える意味が、ここで具体的になります。

公式は、1610年に清須越が始まり、1613年に武士や町人の住居が定まったとしています。町人地には、正方形に区切った「碁盤割」の地域が設けられました。

さっきの天守の年表と、ここを横に並べてみて。

工事が進んでいる頃に、町の移転も進んでいる。
天守の完成と、城下町の住まいが定まることも、別の出来事として見られます。

お城の外側を後から付け足された背景のように扱うより、工事と町の移転を並べると、一つの地域をつくる過程として読めるよね。

地図に慣れていない人は、最初から細かい町名を全部書き込まなくていいと思います。公式ページにある町割りの説明を読み、城の位置、町人地、武家地、寺町の関係を大まかに描くだけでも、何をどこへ配置した話なのかつかめます。

今の地図と比べるときは、400年間ずっとすべて同じだった、とは考えないでね。公式が紹介するのは、現在にもつながる街の原型です。その後の道の変化や建物の入れ替わりまで、当初の町割りだけで説明できるわけではありません。

たとえば、今歩く道と昔の絵図の道が似ていると気づいたら、「この場所に当時どんな区画があったか」を一つ調べる。その程度の小さな問いでも、城下町の歴史に入れます。昔の店が今も同じ場所にあると想像で決めてしまうより、絵図の年代や解説を合わせて読むほうが、発見を次へつなげられるよ。

名古屋城を本で調べるなら、この記事で挙げた学研の本は城そのものへの関心を深める候補です。清須越の町割りが本のどの章にどの程度載るかは未確認なので、町の移転をさらに調べたい人は公式の清須越の説明も合わせて見てください。城と町、それぞれの資料を選べば、目的に合わない本を無理に一冊で済ませなくていいんです。

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町の移転と配置の出典は名古屋城公式の清須越の解説。書籍の紹介とISBNは学研の出版社ページで確認しています。書籍本文は未読で、紹介した歴史の根拠は各公式ページです。

もし見学前に読むなら、歴史のメモと当日の案内を別に用意しておこう。歴史のメモには土地・工事・町の疑問を一つずつ。当日の案内には、公式サイトで確認した入場や立入りの条件を残す。古い本の地図を持っていても、それだけで今の通れる道を決めない。調べた歴史を楽しむ準備と、当日迷わない準備を、どちらも短く持っていけるよ。

金の鯱に目がいく入口は、そのままでいい。
そこから、どうしてこの土地なのか、石垣は誰の持ち場だったのか、誰が入ったのか、と一つずつ問いを足してみて。

そして最後に、城の外へ。

清須から移ってきた暮らしまでつながると、家康の名古屋城築城が「大きなお城を造った」の一行から、もう少し立体的になるよ。次に城の写真を見るときは、屋根の下の石と、その外の町も一緒に思い浮かべてみよう。

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この記事を書いた人

徳川家康の生涯や関わった人々、ゆかりの地を少しずつ追いかけています。

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