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清見寺に、朝鮮通信使の詩が残っている。
家康も使節と会っている。
この二つを知ると、家康の目の前で、使節がその詩を書いた場面を思い浮かべたくなるかもしれません。
でも、ちょっと待って。会見はいつ? その詩の使行年はいつ? 今残る資料を書いたのは誰?
ここを一つずつ見ていくと、清見寺が単に「家康ゆかりのお寺」というだけではなく、時代をまたいで使節の言葉を残してきた場所だと見えてきます。
1607年の使節は、江戸で二代将軍の秀忠と会い、帰路には駿府で家康に会ったと、公的な解説で案内されています。今回はその順番から入り、静岡市が公開する二つの詩の解説へ進みます。現地で見学した体験談ではなく、公開本文を読んで歴史をたどる記事です。
読み進める背景の一冊には、仲尾宏『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』を挙げます。楽天で確認した商品は中古書籍です。本の本文を読了したレビューではなく、書誌と目次を確かめて選ぶ候補として紹介します。
1607年、江戸では秀忠、駿府では家康。まず会った相手と場所を分けよう
仲尾宏『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』の中古本を楽天市場で確認する
1607年と聞いて、幕府を開いた家康が江戸で使節を迎えた、と一続きに考えてしまいそうになる。けれど、この時点では、将軍職はすでに秀忠へ移っています。
在韓国日本大使館の2007年のコラムは、1607年の使節が江戸城で秀忠と会見し、その帰途に駿府の清見寺で家康に会見したと説明しています。静岡県の解説も、第1回使節が駿府で大御所・家康に接見したことを紹介しています。
江戸の秀忠と、駿府の家康。
同じ使節の旅の中に、二つの対面があるんですね。
このサイトの大御所政治の記事で見た、将軍職を譲った後も家康が政治に関わるという話を、具体的な外交の場面へつなげられます。ただ、今回は政権の仕組み全体を繰り返すより、この使節が誰に、どこで会ったのかを先に押さえましょう。
メモは「1607年/江戸・秀忠」「同じ使節の帰路/駿府・家康」の二行で足ります。家康も秀忠も登場するからと、会見の場面を一つにまとめないための小さな区切りです。
また、大使館のコラムには、国書を渡した日の換算を説明する脚注があります。日本と朝鮮で閏月の入り方が違ったため、日付を新暦へ直す際に混乱が生じるという内容です。今回ここで使行日録の原文を調べ直したわけではないので、独自の暦の換算結果としては示しません。
年表に細かい月日を書き足すなら、旧暦か新暦かだけでなく、どちらの暦に基づく日付かも確認する。その問いを持っておくだけでも、別の資料で数字が違ったときに、すぐどちらかを誤りと決めずに読み進められます。
最初の使節は「回答兼刷還使」。お祝いの訪問だけでは説明できない出発点がある
国交回復を扱う章がある『朝鮮通信使』の中古本を楽天市場で探す
使節の目的を調べると、「回答兼刷還使」という呼び名が出てきます。読みにくい言葉だけど、何をするために来たのかが詰まっています。
大使館の解説では、回答は日本側からの国交回復の要請に応じること、刷還は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で日本へ連れてこられた朝鮮の人々を本国へ連れ戻すことを指すとしています。
ここは、華やかな行列や歓迎の様子より前に置いておきたいところです。戦争によって断絶した関係があり、帰ることを求められた人々がいた。その後の交流を読むときも、この出発点は外せません。
福岡市博物館の解説も、最初の来日は朝鮮出兵後の戦後処理のためで、寛永年間以降には主に将軍の代替わりや世継ぎの誕生の際に来日した、と時期を分けています。初めからすべてが同じ目的の祝賀使節だった、と読む話ではないんです。
大使館のコラムでは、第4回に当たる1636年から通信使という呼称になることも説明しています。一方、現在の案内では、1607年から1811年までの12回の使節をまとめて朝鮮通信使と呼ぶことがあります。総称として読む場面と、その時の名称を確かめる場面を分ければ、二つの呼び名が出てきても戸惑いにくくなります。
家康の意向が関わったことを知るのは大切ですが、一人が思い立っただけで往来が実現した、と縮めたくはありません。福岡市博物館は、日本と朝鮮との交渉が一般に対馬藩を介して行われ、使節の来日から帰国まで対馬藩士が随行したことも紹介しています。
国の方針、間を取り持つ人々、旅を続ける使節。立場を分けて読むと、「家康の外交」という大きな言葉の中に、交渉や移動を支える仕事があることまで追えるようになります。
清見寺は一度の会見だけの場所ではなく、使節が泊まり、休み、言葉を残した場所
使節を迎える歴史を読む候補に、岩波新書『朝鮮通信使』の中古本を見る
では、清見寺はどんな場として使われたのでしょう。
静岡市の解説は、清見寺が迎賓館として使われ、第1回と第3回の使節は宿泊し、その後もたびたび休憩場所になったと紹介しています。その際、寺の住職との文化交流が行われ、扁額や詩書が残されました。
家康が会ったという一点だけでなく、次の使節、その後の使節もこの場所に関わっている。ここが見えてくると、残された詩の年代が気になってきますよね。
資料の数を見るときも、何を数えているかをそろえてみましょう。市のページには、次のような異なる範囲が説明されています。
| 範囲 | 市の説明にある数 | 同じ数として扱わない点 |
|---|---|---|
| 2006年に県指定有形文化財となった清見寺の関係資料 | 69点 | 世界の記憶に登録された範囲とは異なる |
| 2017年に世界の記憶へ登録された清見寺の資料 | 48点 | 日韓全体の登録資料数ではない |
| 日韓共同で登録された資料全体 | 111件333点 | 清見寺一か所の資料数ではない |
69点と48点の数字が出てきても、資料が減ったという意味ではありません。文化財の指定と、世界の記憶への登録について、説明している範囲が違うんです。
世界の記憶は、ここでは歴史的な記録物の登録の話です。「清見寺という建物全体が、この資料と同じ形で世界遺産に登録された」とは読み替えません。市の案内でも、境内の史跡、庭園の名勝、関係資料の文化財指定は別に並べられています。
全部の制度名を暗記しなくても大丈夫。詩を一つ開く前に、「いま見ているのは場所の説明か、残された資料の説明か」を分ける。その一歩で、書かれた言葉へ入りやすくなります。
1607年の詩でも、今残る資料の筆者は別。No.46の「槐翁筆」を見落とさないで
初期の使節と国交回復の背景を読む『朝鮮通信使』の中古本を確認する
静岡市の公開一覧で、まず開きたいのがNo.46です。題には、副使・慶暹の七言絶句と、従事官・丁好寛の七言絶句が並び、どちらにも槐翁筆と付いています。使行年は1607年、制作者は槐翁とされています。
あれ、詩に出てくる二人の名前と、制作者の名前が違う。
解説を下まで読むと、慶暹と丁好寛の詩を槐翁が書き直したものだと分かります。1607年の使節の詩であることと、今残る資料を誰が書いたかは、同じ質問ではないんですね。
この違いは、細かい書誌の話に見えるかもしれません。でも、家康がその場で見た自筆の一枚、と想像でつなげてしまわないために役立ちます。今回確認した説明では、槐翁が書き直した年代までは分からないので、制作年をこちらで1607年と補いません。
市が載せる現代語の説明では、山側の滝と池、門前の海、松や竹といった景物が出てきます。景色はただ位置を報告するだけでなく、神仙の世界を思わせる表現にもつながっています。
ここは、まず二つだけ拾ってみると入りやすいです。山側の水と、寺の前の海。そこから、どんな言葉で景色を捉えているかへ戻ってみて。地名と年号だけのメモとは、少し違う読み方ができます。
一方で、詩の中に見える景色を、そのまま現在の境内から見える景観の保証にはしません。現代の写真と突き合わせて現地を調査した記事ではなく、市の解説と現代語の説明を読んだ範囲です。画像の形や筆跡を実際に鑑定した話にもしていません。
資料を読むときのメモは、「詩を作った人」「今ある資料を書いた人」「使行年」の三つ。慶暹・丁好寛、槐翁、1607年と分けておけば、一つの年号に全部を押し込まずに済みます。
一覧のNo.1は1643年。資料番号の順番は、家康の時代からの年表とは限らないよ
家康の時代の後も続く使節を知るため、『朝鮮通信使』の中古本を楽天で探す
No.46が1607年なら、No.1はもっと古い? と思うかもしれません。でも、実際に開くと、読祝官・朴安期の詩は使行年1643年。制作年代も1643年と示されています。
番号と年代は、同じ並びになっていないんです。
静岡市の一覧は、世界の記憶への登録申請リスト順に資料番号を付けたと説明しています。だから、No.1から読むことは、最初の使節から時系列に読むこととは別です。小さなことだけど、ここが分かると一覧をずっと使いやすくなります。
形態の欄にも違いがあります。No.46は紙本墨書の二曲一隻の屏風、No.1は紙本墨書の掛軸装と記されています。文字を読むだけでなく、どんな形で伝わった資料なのかも比べられるんですね。これは市の資料情報での確認で、画像を拡大して紙や筆跡を調べたという意味ではありません。
朴安期の詩の現代語説明では、再び訪れた清見寺への思い、水や木々、門の外に止める使節の車、西へ沈む夕日が現れます。先ほどの1607年の詩と同じ場所に関わりながら、使行の年も、書き手も異なります。
例えば、二つの詩から水に関わる描写を一つずつ見つけてみる。次に、海や夕日など、目が向けられている先を比べてみる。何が同じで何が違うかを、自分の問いとして持てます。現代語の説明を丸ごと書き写すより、気になった景物の名前を短くメモするだけでも始められますよ。
そのとき、1643年の詩まで家康本人が迎えた使節の声として一括りにはしません。家康は1616年に亡くなっています。家康がいた時代の往来と、その後も続いた交流は、つながってはいても同じ場面ではないからです。
「家康が交流を始めたから、残る詩は全部家康の時代のもの」と思わず、各資料の使行年を見る。逆に、家康が亡くなった後の資料があるからと、最初の接見との関わりを切ってしまう必要もありません。同じ寺に異なる年の記録が残っている、その重なりを読むことができます。
今回は48点すべての詩を精読したわけではなく、No.46とNo.1の公開解説を読みました。二つから始めて、次に気になる年や役職の資料へ進む。そんな広げ方なら、長い一覧でも取りかかれそうではないでしょうか。
本で背景を広げるなら、書名の似た本を分けて、自分の疑問に近い章を選ぼう
仲尾宏著・岩波新書『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』の中古本を楽天で見る
使節の呼び名や旅の背景をもう少し知りたい人には、仲尾宏『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』が候補になります。国立国会図書館の書誌では、岩波書店から2007年9月刊、岩波新書、ISBNは9784004310938です。
同書誌に載る出版情報登録センター提供の目次では、戦争後の東アジアを扱う序章に続き、第1章が国交回復、第2章が通信使と徳川大君、第3章が威光と対等外交の問題を扱うことが確認できます。今回の「なぜ最初から祝賀だけでは説明できないのか」を考えたい人が、内容を確かめる入口になります。
ただし、この本に、ここで挙げた二つの詩の全文や写真が必ず収録されていると確認したわけではありません。今回読んだ詩の説明は静岡市の公開ページ、背景の本を選ぶ根拠は書誌と目次です。二つを分けて紹介しています。
楽天で実際に確認したブックオフの商品も、仲尾宏、岩波書店、JAN9784004310938が一致し、中古と表示されています。新品を希望する場合や、書き込み・傷みなどの状態が気になる場合は、検索先で販売区分と状態の案内を見てください。価格や在庫、配送をここで保証するものではありません。
「朝鮮通信使」という言葉が入る本は一冊ではないので、副題まで照合するのがおすすめです。人物の生涯を読む本なのか、使節の往来を読む本なのかでも、探せる答えが違います。家康の全生涯を一冊で知りたい場合は、この本の主題が通信使であることも選ぶ前に見ておこう。
本を開く前に、一つだけ疑問を持ってみて。国交回復の交渉が気になるのか。道中を支える人々が気になるのか。それとも、清見寺に残った詩から、書いた人を追ってみたいのか。全部を一度に解決しようとしなくていいんです。
1607年の江戸と駿府を分けたところから、別の年に書かれた詩へ進む。家康の名前を入口にしたはずが、使節や、言葉を書き継いだ人の姿も見えてくる。この広がりこそ、資料を一つ開いてみる楽しみです。
次は、気になった詩のページで使行年を見てみてね。その年の書き手は、家康と同じ時代を生きた人だろうか。そこからまた、新しい問いが一つ生まれます。
主な確認先:在韓国日本大使館の2007年コラム、静岡県・静岡市の通信使解説、静岡市公開資料No.46・No.1、福岡市博物館の展示解説、国立国会図書館の書誌・JPRO提供目次、楽天市場の実中古商品。確認日:2026年10月15日。原史料全文や全48点を読んだ分析ではありません。