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将軍職を秀忠に譲ったあと、徳川家康が暮らしたのが駿府城(今の静岡市)です。家康は駿府城をいつ、どのように築かせたのか。天守はどんな建物で、今はどうなっているのか。静岡市の公式ホームページにある歴史コラムと発掘調査のページをもとに、大御所家康の城をたどります。
この記事では、静岡市公式ホームページ「駿府城~大御所家康終焉の城~」「駿府で行われた『大御所政治』」「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」「徳川家康~大御所と駿府城下町~」の静岡市「駿府城~大御所家康終焉の城~」、静岡市「駿府で行われた『大御所政治』」、静岡市「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」、静岡市「徳川家康~大御所と駿府城下町~」をもとに、大御所家康の駿府城について5つのポイントで整理します。後半の、駿府城跡を歩く前に確かめておきたいことは、この記事の提案です。
※この記事は、2026年10月時点で静岡市公式ホームページ「駿府城~大御所家康終焉の城~」「駿府で行われた『大御所政治』」「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」「徳川家康~大御所と駿府城下町~」に掲載されている内容をもとにしています。この記事は、静岡市公式ホームページの「駿府城~大御所家康終焉の城~」(2026年1月22日更新)、「駿府で行われた『大御所政治』」、「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」(2025年12月26日更新)、「徳川家康~大御所と駿府城下町~」を、2026年10月24日に確認してまとめたものです。見学できる場所や施設は整備工事で変わることがあります。出かける前に静岡市や駿府城公園の案内を確かめてください。
駿府城とは?
場所
駿府城は静岡市の中心地にあり、大御所家康の拠点として知られています。
要の地
東海道に隣接し、東国を守る要の地として重視されていたと書かれています。
今川の館
中世には今川氏の館が建てられていたといわれています。
二つの時代
家康は、天正期の「五ヵ国領国時代」と慶長期の「大御所時代」に駿府城を拠点にしました。
駿府城と家康 5つのポイント
1. 1605年に大御所
将軍職を秀忠に譲りました。
2. 1607年に普請開始
諸国の大名に命じました。
3. 3重の堀の平城
輪郭式の平城です。
4. 天守は再建されず
寛永12年の火災で焼失。
5. 天守台を発掘調査
2016年から行われました。
5つのポイント早見表
| ポイント | 静岡市公式ホームページ「駿府城~大御所家康終焉の城~」「駿府で行われた『大御所政治』」「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」「徳川家康~大御所と駿府城下町~」の案内 |
|---|---|
| 1605年に大御所 | 大御所 |
| 1607年に普請開始 | 天下普請 |
| 3重の堀の平城 | 構造 |
| 天守は再建されず | 天守 |
| 天守台を発掘調査 | 発掘 |
大御所になった家康が駿府へ
選んだ理由
駿府は箱根山の西側にあり、東国に入る要の地域として重視されていました。静岡市のページでは、幕府の支配機構を補う機関、西国の豊臣方勢力に対する前線拠点として、家康が駿府に拠点を置いたものと考えられると書かれています。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 慶長10年(1605) | 将軍職を秀忠に譲り、大御所となる |
| 慶長11年(1606) | 駿府に拠点を置くことを決める |
| 慶長12年(1607) | 諸国の大名に命じて駿府城の普請を始める |
| 慶長13年まで | 普請が続き、のべ60家以上の大名が参加する |
天下普請で大名を動かした
のべ60家以上
慶長12年から13年の普請には、のべ60家以上の諸国の大名が参加したとされています。
豊臣家がいた時代
当時はまだ豊臣家の勢力が残っていましたが、家康は多くの大名家を工事に動員しました。静岡市のページでは、家康が大きな権力をもった存在だったことがうかがえると書かれています。
石垣の刻印
駿府城の石垣には、工事を担当した大名のものと思われる刻印が、今もいくつか残されています。
屏風
江戸時代はじめの城の工事のようすは「築城図屏風」(名古屋市博物館蔵)に描かれています。
駿府城のつくり
輪郭式の平城
慶長期に修築された駿府城は、輪郭式の平城で、三重の堀に囲まれた構造でした。
天正期との違い
天正期はほぼ二ノ丸(今の駿府城公園内)までの大きさで、慶長期の工事でこれを広げたと考えられています。
本丸
本丸には、家康が住んだ御殿と天守がありました。
二ノ丸・三ノ丸
後の徳川御三家の始祖となる三人の末子(義直・頼宣・頼房)や、重臣の屋敷が置かれていたとされています。
天守は何重?二つの書き方
発掘調査のページ
本丸の北西に「5重(または6重)7階といわれる」天守を置いたと書かれています。
「といわれる」
静岡市のページでも、天守の重の数は一つに言い切らず、「または」と書き添えられています。
焼失
寛永12年(1635)の火災で天守などほとんどの建物が焼失し、櫓や門は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
その後
以後、江戸時代の駿府城は建物の規模が少しずつ縮小していったと書かれています。
駿府の「大御所政治」
二元政治
家康がいたころの駿府は、江戸とともにいわば二元政治が行われ、政治・経済の中心地として栄えたと書かれています。
補助機関
駿府の「大御所政権」には、秀忠の江戸の幕府を確立させるための補助的機関の役割があったとされています。
駿府年寄衆
成瀬正成や安藤直次らが「駿府年寄衆」として、幕政の取り決めや大名への通達を行いました。
集まった人々
金地院崇伝や南光坊天海などの僧侶、林羅山などの学者、茶屋四郎次郎や後藤庄三郎といった商人、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンといった外国人も家康に仕えたと紹介されています。
家康は駿府で3度暮らした
3つの時期
静岡市のページでは、家康は幼年期、壮年期、晩年の3度、駿府で過ごしたと書かれています。
幼年期
今川の人質として駿府で過ごしました。静岡駅には、幼名の「竹千代」の像があります。
壮年期
二度目の駿府居住のころの、40代後半の家康の像も静岡駅にあります。
晩年
65歳から亡くなる75歳までの約10年間を駿府で過ごしたとされ、駿府城公園には晩年の家康像があります。
「大御所」の意味
「大御所」は、前の征夷大将軍や将軍の父の敬称だと説明されています。
駿府での暮らしと末の息子たち
趣味
晩年の家康は、側近や大名、末の息子たちと能を楽しむこともあったと書かれています。茶道や鷹狩、書や絵、薬の調合なども行っていたことがわかっているとされています。
三人の末子
9男義直、10男頼宣、11男頼房は家康とともに駿府に移り、駿府城内で暮らしました。のちにこの三人の家系が「徳川御三家」と呼ばれるようになります。
駿府藩主の頼宣
頼宣は慶長14年(1609)から元和5年(1619)までの約10年間、駿府城を居城として駿府藩主を務めたと書かれています。
城下町
今も残る「大工町」や「大鋸町」などの町名は、家康が造った城下町の痕跡だと紹介されています。
家康の最期と、その後の駿府城
最期の地
静岡市のページでは、家康は最後は駿府城の二ノ丸で息を引き取ったと書かれています。
城代の管理
家康の死後、城主となった忠長が改易されると、駿府城は城代の管理になりました。
明治の兵営
明治29年(1896)に陸軍歩兵第34連隊の兵営が置かれることになり、本丸堀は埋め立てられました。
天守台
天守が焼けたあとは天守台だけが残っていましたが、明治29年に取り壊され、その土砂で本丸堀が埋められたと書かれています。
天守台の発掘調査
目的
かつて天守が建っていた場所の整備方針を決めるため、天守台の位置や大きさ、石垣の残り方を調べる発掘調査が行われました。
期間
掘る調査は2016年8月から2020年3月まで行われ、2022年3月に報告書が刊行されました。
見学施設
調査現場と「発掘情報館きゃっしる」は、新しい施設の整備工事のため2025年12月26日で閉館したと案内されています。
復元された建物
戦後、本丸と二ノ丸は公園として整備され、巽櫓、東御門、坤櫓が復元されて公開されています。
駿府城跡を歩く前に確かめておきたいこと
ここからは、静岡市公式ホームページ「駿府城~大御所家康終焉の城~」「駿府で行われた『大御所政治』」「駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査」「徳川家康~大御所と駿府城下町~」の案内をもとにした、この記事の提案です。
ここで挙げるのは、静岡市のページをもとにした確認の例です。
地図
静岡市が公開している「駿府城独案内」の地図で、遺構の場所を確かめます。
石垣の刻印
石垣に残る大名の刻印を探してみます。
銅像
静岡駅の竹千代像や壮年期の家康像、駿府城公園の晩年の家康像も見比べてみます。
復元の建物
巽櫓、東御門、坤櫓の公開日や時間を確かめます。
工事の情報
天守台跡の周りは整備工事中のことがあるので、出かける日の案内を確かめます。
よくある質問
駿府城はいつ築かれた?
現在の規模に作り替えられたのは、慶長12年から13年の普請です。
天守は今もある?
寛永12年(1635)の火災で焼失し、再建されていません。
天守は何重だった?
静岡市のページでは「5重(または6重)7階といわれる」と書かれています。
家康はどこで亡くなった?
静岡市のページでは、駿府城の二ノ丸で息を引き取ったと書かれています。
駿府城公園で見られる建物は?
復元された巽櫓、東御門、坤櫓があります。
家康は駿府に何年いた?
晩年は65歳から75歳までの約10年間を駿府で過ごしたとされています。
徳川御三家との関係は?
家康の末の三人の息子が駿府城内で暮らし、のちにその家系が御三家と呼ばれるようになりました。
発掘情報館は見学できる?
2025年12月26日で閉館したと案内されています。
駿府城は、大御所家康が天下普請で築いた城
静岡市のページによると、家康は大御所となったあと、慶長12年(1607)に諸国の大名に命じて駿府城の普請を始めました。三重の堀を持つ輪郭式の平城で、天守は「5重(または6重)7階といわれる」建物でしたが、寛永12年の火災で焼失しています。石垣の刻印や復元された櫓を見ながら、大御所の城を歩いてみてください。